龍ケ池伝説

 寛文5年、伊船村の大庄屋 真弓長左衛門治広氏が伊船新田の田、約30余町歩の灌漑用水として作ったといわれている。
 龍ケ池は現在の伊船町にあり、東西約200m、南北約130m、周囲1kmの大貯水池である。しかし、この池のできるまでは水が乏しく新田開発をしても、旱魃のため農民の窮状は甚だしいものであった。長左衛門は大変これを心配して伊船部落の東野谷を堰き止め貯水池を作って、この百姓の人々の苦しみを救うことを決意し、寛文5年、時の亀山藩の領主石川昌勝にこの工事の許可を願うとともに、援助することを願い出たのである。領主正勝はこれを許可し、人夫延1万人余を出して援助。長左衛門も私財を投げうって人夫3000人余を雇い入れ東奔西走、工事の完成のため努力し1日も休むことなく人夫を監督し督励にあたったが、工事半ばに出水のため再度にわたって、折角気づいた堤防が崩れ去ってしまった。あまりのことに占ってもらうと、これは水神のたたりだから人柱を立てなければいけないとのことであった。ところが、その頃どこからか流れてきた龍という女の人が、ある百姓家に奉公していて、ちょうどそのおり、工事に来ていた主人のもとに弁当をもってきた。これを見た一人が、彼女こそ人柱になるにふさわしいひとであると言って、皆で彼女に一同の犠牲になってほしいと強く頼みこんだ結果、彼女はこれに同意したので、ついに生きながら堤の下に埋められ人柱となったのである。そして、この池の名を龍ケ池と名づけた。このことがあってから後は、どのような洪水にあっても、堤の流されることがなくなった。しかし、その後、この池に生息する魚はみんな背中に瘤があった。これは彼女が弁当を背負った姿であろうと伝えている。また、この池の恩恵によくする伊船新田、伊船野田の人々は、ある一定の期間中は機を織らないように決め、もしこの掟を破った人は、機織気をかついで、池の周囲を回らなければならないといわれた。これは龍女への供養のためであろう。現在、その供養の碑が池の辺に建てられている。