・姫 塚

 文明二年、第103代後花園天皇の第一皇女安禅寺殿が京都の大乱(応仁の乱)を避けて、金光寺(東庄内町階下)に来られ、30余年の長年を当寺で過されたが、57才でこの地で亡くなられ、東野に葬られた。これを姫塚という。
現在は、畠にかこまれ侵耕され大きさも半分位になっているが、高さは3椚位あり、当時は相当大きなものであったことが伺われる。
 寺の下を流れる川を「かこち川」というのは都をカコツ(思いわびてなげく)という意味からつけら

・姫塚古墳

東名阪道路東庄内料金所の南方近くの畑の申に、寂しく残されている土くれがある。
 そこには今を去る500年前、日本国中を戦乱と化した、応仁の乱を物語る悲歌がある。
 名づけて世俗「姫塚」という。
 丘状をなす高さ1メートル余りの古墳は、その盛り土も崩れかけて伸びるにまかせた雑草の中にひっそりと眠っているようにみえる。原(東庄内町)の金光寺などに残る記録は次のように物語っている。 応仁の乱が始まると、後花園天皇の第一皇女は、京都の山科で仏門に入られた。うら続く戦乱と飢饉に、当時の人々は苦しい生活を送っていた。その悩みを少しでも和らげようと、天皇は仏教に心を寄せられた。皇女もおそらく父天皇に習われたものであろう。しかし、それも意にまかせず、文明2年(1470)乱を避けて当地の金光寺に身をお寄せになった。その年も押し迫る頃、父天皇の病重く、皇女は俄かに都にお帰りになった。
 せっかくの看病のかいもなく上皇は他界され姫の身辺も急に寂しくなった。御後のことを一応済まされた姫君は再び金光寺においでになられた。
 戦のない平和な里に心を澄まされたい、いらずな願いからであったろうが、30歳にならぬうら若き身空で、異郷に過ごすあけくれは、まさしく労わしい限りではなかったろう。
 土俗、この寺を「かこら山」下を流れる川を「かこら川」といつしか言うようになちたのも「都をかこら(都を慕っていろいろと思い嘆く)給ふ」という姫の心境を偲んでのことであると思われる。
 姫はこの地で30余年の年月を過ごされ、明応9年57歳の生涯を閉じられた。
 何事もなければ何一つ不自由なき生活を送られたであろう皇女の運命戦争はいつの時代にも弱い者に苛酷である。


・吉尾道場跡

 東庄内町の西を流れる入島川と小流亀淵川の合流点に、北から延びる標高80メートルの丘陵があり、その突端に位置する。
 東を流れる入島川との比高は約18メートル、中世城砦とみられるような要塞の地である。
 寛正3年(1462)前後、夷慧が真宗布教のため道場を建てた跡である。元は130メートル四万に濠と土塁をめぐらしていたが、恥和34年頃より開墾のため遺構は消滅し、現在では残存土塁があるだけで、大部分が荒れ地となっている。
 開墾に際しては中国の古銭が多く出土したという。
 轟慧がここを根拠としたのは2、3年か知れぬが、その教化を慕って遠近から集まる者が多かった。その強大な組織力は伊勢真宗の発祥地三日市村の坊主衆との対立も生み、ことにこの南方の峯城の城主に危惧の念を抱かせ、その迫害が兵慧に及ぶこととなった。兵慧は逃れて加賀に赴き、後に一身田に入って高田本山専修寺の基を開いたという。又後に専念坊によって道場跡に吉尾山蓮棄寺が建てられたが、その後豊臣秀吉の陣所に定められたので、現在地に移ったという。なお北方にあった一字一石の経塚は室町時代のこの道場と飴係あるものと考えられる。


・吉尾経塚

 吉尾道場跡の西北200椚のところにある。吉尾道場のあった頃に築かれたものか。申には一字一石経を埋む。
 石は川原石にして径3(潮位の扁平なものに経字一字一字を墨書してある。
文字には常、為、天、経等々があり、浄土三部経の文字を書いたものと思われる。
 現在その周囲は畠になっており、ほんに土盛り程度の励くをとどめるのみである。20数年前県文化財伊藤委員会の調査によって新聞紙上に発表されたこともある。


・庄内神社

 元庄内村大字原村字下宮代にあったのを明治末年に村内神社合部を合柁現在地字保背倉に移転し村社庄内神社と社名を改めた。字宮代にあった神社は延喜式にでてくる鈴鹿郡十九座のうら一社である天一鍬田神社であると考えられる。神名帳考証には祭神を天日一億神にあてている。原村村誌には入鴫明神と称し、大社として御厨御園が多くついていて盛大であったが、後衰えたけれども江戸時代には亀山藩主から供田を寄せられたとある。現在の祭神は合柁により伊邪那岐命外20柱となっている。
 明治39年神僕幣寓料供進社に指定された。


・鈴峰山正福寺(上野)

 康永3年ある武士が髪をおとし天台宗の一音を建て(御村上天皇)後、慶長年間に真宗高田派に属したとされている。